②ハプスブルグ帝国最盛期のウィーン
華やかなウィーン
当時のウィーンはハプスブルグ帝国期であり、またその最盛期とも言える時代でした。
ウィーンでその中心となったのが、当時のハプスブルグ皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とその皇妃エリザベートです。
ハプスブルク家といえば日本でも馴染みがあると思います。
エリザベートも、一度、名前くらいは聞いたことがあるのではないでしょうか。
その華やかかつ悲劇的な生涯は演劇、ミュージカルとして宝塚劇場などでも公演されており、そもそもハプスブルク家が、なぜ日本でこんなに有名なのかといえば、おそらくエリザベートの影響が大きいでしょう。
フランツ・ヨーゼフ1世は幼少の頃より、帝王学、エリート教育を受けました。学問、芸術、武術、外国語などあらゆる分野の教育を受けたとされますが、とりわけ外国語が重要視されていたようです。
なぜ外国語が重要なのかといえば、地域の言語を皇帝は習得することが、支配する地域の住人から支持されるためには、重要だからです。
また、皇帝自身が文化・芸術を理解、庇護したことが、ウィーンで文化の華が大きく開いたことにも繋がってきています。
皇妃エリザベートも、当時ヨーロッパにおいて宮廷随一の美女として名高かったとされます。そして、彼女自身もまたバイエルン王家のヴィステルバッハ家の縁の家の出です。
18歳の時に王位を継いだ皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と、当時まだ16歳だったエリザベートとの結婚(ちなみにフランツ・ヨーゼフは結婚時は24歳)は当時のヨーロッパを騒がせたロイヤルウェディングであったことは想像に難くないでしょう。
華麗なるウィトゲンシュタイン家
華やかなウィーンの都にあって、王家、ハプスブルグ家の他にサロンの中心となった一族の一つにウィトゲンシュタイン家は欠かせない存在です。
「論理哲学論考」で有名なルードウィヒ・ウィトゲンシュタインは、ウィーンの哲学者というだけでなく、ウィトゲンシュタイン家と共に文化の中心にいたと言えます。
例えば、ウィーンモダニズムを代表する、グスタフ・クリムト、あるいはヨーゼフ・ホフマン、あるいはウィーンではないですが、オーギュスト・ロダンなどの芸術家はウィトゲンシュタイン家の支援を受けていました。
音楽に関しても一族はブラームスやマーラーなどとの親交もあり、一族の中にはメンデルスゾーンに直接ピアノを習う者までいました。
ウィトゲンシュタイン家には、多くの画家、音楽家、建築家が出入りしていたようで、ウィトゲンシュタイン家が多くの文化を生み出すサロンのようになっていたのです。
ウィトゲンシュタイン家はアシュケナージ系のユダヤ人ですが、金融業を生業とするのではなく、基本的にはルードウィヒの父カールが製鉄事業で成功したため、資産家となったようです。
また、カールの父ヘルマンはルター派に改宗しており、ルードウィヒもカトリックの司祭により洗礼を受けているため、ユダヤ教、金融といういわゆるユダヤ人とは少し異なる立ち位置であった点も興味深いです。
ウィーンモダニズム③日本とウィーンモダニズムとの関係
ウィーン万博
ウィーンモダニズムにおいて、大きく日本の文化と交わった地点が存在します。
それは1873年にウィーンで行われたウィーン万博です。
1873年という年は、日本では明治維新が発足したてであり、岩倉使節もちょうどヨーロッパをまわっていた時に万博を訪れていた、という記録もあります。
ヨーロッパで前後のパリ万博と相まって日本ブームが起き、日本の水彩画などがその後フランスではモネなどの印象派、ウィーンではグスタフ・クリムトなどにも影響を与えています。
ウィーン分離派のオットー・ワーグナーや、クリムトには日本の影響が見られます。
ウィーンモダニズムという文化のビッグバンが起きた時代の直前に、ウィーン万博は開催され、日本の文化が広く知れ渡ったことも、ウィーンモダニズムに大きな影響を与えたことだと思います。
異なる文化が交わって、新しいものが誕生したのです。
EU誕生の生みの親は日本人?カレルギー伯爵とは
日本とウィーンを繋ぐ重要な人物に、リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー伯爵がいます。
カレルギーはクーデンホーフ家とカレルギー家が連携した伯爵家の出ですが、実が日本の東京で生まれ、青山栄次郎という日本名も持っています。
カレルギーは父親がオーストリア人、母親が日本人で、日本で生まれ、ヨーロッパに母親と共に移り住みました。
カレルギーはオットー・フォン・ハプスブルグらとともに汎ヨーロッパ主義、つまり、一つのヨーロッパを唱えた人物であり、それが現在のEUへと繋がっていきます。
ある意味、EUの生みの親の一人と呼べる人物で、そのような人物が日本で生まれていたのも不思議な縁と言えるでしょう。
日本とカレルギーとの関係はその後も続くことになります。当時ドイツに駐在していたのちに鹿島建設会長となる鹿島守之助と親交を結び、後に再び日本を訪れた際には、昭和天皇皇后とも謁見し、勲一等瑞宝章も受けています。
ちなみに瑞宝章は儀礼的に外国人に授与されることもある勲章だそうです。カレルギーが鹿島守之助、あるいは鳩山一郎といった政治家に影響を与え、戦後の国際社会に大きな影響を与えた人物であったとしても、そうした儀礼的な意味合いでの授与ではないでしょうか。
日本に生まれ、第一次、第二次世界大戦と激動の世界とヨーロッパを生き、日本的な平和思想を持ち、日本の皇室、財界、政治家と交わったカレルギー伯爵は、時代を作ったエスタブリッシュメントの一人と言えます。
ウィーン工房
もう一人、文化・芸術の面で日本とウィーンモダニズムをつなぐ人物に、ウィーン工房の上野リチ・リックスがいます。
ユダヤ人の彼女は日本人の建築家、上野伊三郎がウィーン工房に留学した際に知り合い、結婚して上野リチと日本名になり、その後、京都を中心に活動しました。
上野リチはその後、京都市立芸術大学で教えていた時期もあり、日本の芸術の中にもウィーンモダニズムの影響を与えた可能性のある人物の一人と言えるでしょう。
ウィーンモダニズム Winner Modern
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