知られざるウサギバブル
子供のためのお金のリテラシー教育 お金について考えてみよう
ここでは「お金」にまつわる、いろいろなお話をします。一見バラバラのお話のように見えるかもしれません。しかし、話が進んでいくにつれて、ジグソーパズルのピースのように、一つの絵を形作るために、お互いに関連しあっていることがわかってくるでしょう。ここで読んだことが、既に自分の持っている知識と結びつくこともあれば、日常生活の中で、連載の内容と関連する出来事を見聞きして、納得することもあるでしょう。そういう時に、頭の中で知識のネットワークが強化されます。この連載を読んで、興味を持ったり、疑問に思ったりしたら、続きは、自分で調べてみましょう。
発端
ウサギバブルがどのように発生したのかについてははっきりとしたことは分かっていませんが、次のようなことがあったようです。
明治の初めの事。ある人物が「2~3年のうちに太陰暦(月の満ち欠けを元にした暦)が廃止になる」と予言し、そうなると「月に住むウサギが生活を失い餓死する」ので、その霊を鎮めるためにウサギを買い集めて可愛がっていた。そうしたところ、舶来(外国からの輸入品)のウサギから珍しい模様のウサギが生まれ、それを売って大儲けをした。そして実際に明治5年末に太陰暦が廃止され(現在の太陽暦に切替え)予言が的中したのでさらに大儲けをした。
これがどこまで事実かわからないものの、白ウサギに黒毛のウサギを交配させて誕生した「更紗(サラサ)」という模様を持つウサギが大人気になり高額で取引されるようになったことがウサギバブルの発端のようです。
バブル
明治5年には更紗ウサギは一羽200円~300円、中には600円で取引されたこともあるなど、ウサギの価格は短期間の間に高騰していました。当時の1円の価値については諸説ありますが、現在の価値に直すとおよそ2万円と考えれば良いようです。上記のウサギの価格は、現在で言えば400万円~600万円、1200万円ということになります。とんでもない高額ですね!
東京や大阪など大都市部では、ウサギ市が立ち、大勢の人々が集まって熱心にセリに参加していました。毛色の珍しいウサギを手に入れ、交配させて新しく珍しい毛色の子ウサギが生まれたら、それを高く売って儲けるためです。
ウサギは愛玩動物であり、それを飼っていたからと言って、牛のように乳を生むわけでもなく、馬のように働くわけではありません。そのような生き物の価格が急激に高騰するという、日本史上では非常に珍しい愛玩動物のバブルが発生したのです。
短期間でバブルになった理由としては、
・当時は米の価格をはじめとして、各種の物価が高騰していたので、所得を増やすために本業以外でも儲けようという人々の思いがあったこと。
・ウサギ自体、愛玩動物として可愛いし、体が小さく場所を取らず飼育が容易である(当時の餌は、青菜やおから)飼っていると御利益がある(病気にならない)という俗信があった、しかも繁殖が容易である(1回に5羽~6羽も生む。生後半年くらいで子どもを生めるようになり、年に7回~10回も子どもを生むことができる)
ということがあげられます。
一つのことに熱中しやすい江戸っ子気質、商売のネタに敏感な大阪商人気質も大いに影響したようです。(ウサギバブルは地方でも発生していたが特に東京、大阪で盛んであった)
番付表
ウサギ市の世話人をしている人たちを中心にして、ウサギの番付表というものが作られました。珍しいウサギの種類、その所有者の姓(または屋号)、住所が書かれた表で、大関、関脇、小結、前頭 というように相撲の番付表のように序列がつけられています。当時番付表に載っていた人たちはさぞかし誇らしかったことでしょう。その人のウサギを見にお客さんがたくさんきて褒めそやすような事があったのではないでしょうか。この番付表はまさにウサギバブルの象徴とも言えましょう。
対策
当時の新聞の記事はこのようなバブルには批判的であり、東京府(今の東京都)も政府も、人々が本業を忘れて投機に熱中するのは非常に好ましくないと考えていました。長く続いた江戸幕府による治世の時代が終わり、海外の列強国に負けずに互角に渡り合っていくためには、国内の産業を育成して国力をつけて行かなければならない時です。そんな時に博打のような取引に人々が没頭していたのでは産業の振興が進みません。そこで東京、大阪では明治5年、ウサギ市を立てることを禁止しました。しかしそれでもこの熱狂は収まりませんでした。
偽物
現代にもブランド品を偽造して販売する人がいるのと同じですが、毛色の珍しいウサギが高額で売れることに目をつけた人が、白ウサギを染料で染めて売った人が現れ、厳罰に処されました。
悲劇
悲劇も起きています。ある人が持っているウサギを150円で買いたい人が現れたので売ろうとしたが、父親は200円でないと売らないと断りました。ところがその夜にウサギが突然死んでしまったので親子げんかになりました。おそらく息子は今日のうちに売っておけば大儲けできたのに、父が欲張ったために台無しになったと言って、父をなじったのではないでしょうか。息子に突き飛ばされた父親は縁側から落下して庭の石に当たり、打ち所が悪かったために不幸にして亡くなってしまいました。息子は監獄(現在の刑務所にあたる)行きになりました。このほかにも、ウサギ売買にともなう殺人未遂事件も起きています。人々の理性を失わせるほどの熱気が渦巻いていたことが想像できます。
対策
明治5年にウサギ市、ウサギ集会が禁止になった後も、人々は茶道具入れの箱に偽装したウサギカゴにウサギを入れて密かに持ち運び、集会を開くようになっていました。バブルは収まりませんでした。
明治政府は、産業の振興のために人々が自由に商売をすることを認めていたので、ウサギ取引そのものを禁止にはしていなかったのです。
大勢が集まって市を立てれば、それはウサギをセリに掛けることになりますから、当然、参加者が熱中して値段がつり上がっていくことになります。しかし、個人間の取引ならば熱狂することなく次第にバブルも収まっていくと考えていたのでしょう。
また、ウサギの取引を全面的に禁止にしたとしても、外国人居留地に住む外国人には禁止令は適用できず、かえって外国人のみがウサギ取引による利益を独占してしまうことを危惧したからでしょう(当時は、江戸時代に諸外国と結ばざるを得なかった不平等条約のために、外国人を日本の法律で取り締まることができなかった)実際、日本のウサギバブルは海外の商人たちの知るところとなり、 数千箱ものウサギの箱を積んだ船が日本に来ていたのです。
そこで、東京府はさらに強力な沈静化策を実施しました。
強力な対策
明治6年12月に東京府は次のような通達を発しました。
・ウサギを売買した者は地区の役所に届け出ること。
・地区の役所は、ウサギの所有者の名簿を作ること。
・地区の役所は、ウサギを飼っている人から、毎月1羽につき1円の税金を取り立てること。
・無届けでウサギを飼っているものからは1羽につき2円の罰金を取り立てる。
・ウサギ市をたててセリをすることは禁止する。
バブルの崩壊
これだけ強力な策が立てられると、ウサギ売買に熱中していた人々の熱は冷めていきました。何しろ、ウサギを10羽も飼っていたら月に10円、一年では120円にもなってしまいます。ウサギがたくさん生まれたら大変です。
店先に並んでいたウサギはたちまち姿を消しました。それまで大切にされて可愛がられてきたウサギたちにとっても悲劇が起きました。ウサギを殺してしまったり、床下に隠したり、川に流したり、地方に持って行って売ったり(毛皮用、食肉用として)、処分をする人が次々に出てきたのです。ウサギを激安で売り歩く人もいました。
当局がウサギを隠している人の家に踏み込んで捜査したこともありました。現代で言えば「マルサ」(国税庁調査部)の査察ですね。
このようにしてウサギの価値は急速に低下し、バブルは崩壊していきました。資産の多くをウサギにつぎ込んでしまっていて没落した人も多くいたようです。
さらに強力な対策
実はその後も一部の人々の間ではウサギの高額取引は続いていました。税金を払ってでもそれ以上に儲けを出せると考えた人は続けていたのですね。明治6年東京府の徴収できたウサギ税は51円だけでした。ウサギを飼っている人が少なくなった事もあるでしょうし、隠して飼っている人ばかりになったということなのでしょう。
それで、明治9年さらに強力な通達が出されました。
・売買成立がしたら3日以内に届けること。違反者には2円の過怠金を課す。
・ウサギを隠している人を密告した人には過怠金の半分を給付する。
・ウサギ売買所を儲けて看板を掲げることは禁止する。
ついに密告制度の導入です。当局がウサギを隠している人の発見に苦慮していたことがわかります。密告制度の成果なのでしょうか、明治9年には349名、明治10年には166名、ウサギを隠し持っていた人が取り調べを受けたという記録があります。これだけ強力な通達が出ても、ウサギを隠し持って秘密裏に取引をする事はなくならなかったのですね。
転機、そして結末
人々の熱気を冷ます政策は取られたものの、ウサギの取引自体は禁止したわけではなかったので、ウサギ取引を正式な商売として堂々とできるように認めてほしいという請願を出す人もいました。
また、当時の内務省には「博打のような取引を規制することが、まっとうな市民の商売をも止めてしまうことにつながるのは良くない」という考えがあり、その事が東京府に影響を与えたようです。それで、明治12年、地方税の規則が制定された際に、東京府はそれまでのウサギ取引に関する規制を撤廃しました。厳しい規制から一転して、ウサギの取引はその他の通常の取引と同じ扱いになったのです。
ただし、ウサギバブルで巨額の富を得た人がいた一方、富を失った人も多く、二度とウサギには関わりたくない人が多かったのでしょう。明治12年以降はウサギ取引はほとんどなくなってしまったようで、あれほど過熱していたウサギバブルもいつの間にかなくなり、人々の記憶から遠ざかっていくことになったのです。
その後、明治22年には「東京養兎殖産会社」が設立されていますが、その後どうなったのか調べたのですがわかりませんでした。
長く続いた江戸時代の封建制度が終わり、新しい時代になった明治の初期。ウサギバブルというものが発生していたことは、考えてみたらとても不思議に思いますが、当時の人たちにとっては一獲千金を夢見させる非常に魅力的な物だったのでしょう。
現代においても何度も同じようなことが繰り返されていますね。人間の本質が変わらない以上、またバブルは起きるでしょう。次は何のバブルなのでしょう。
付記 「アンゴラ狂乱」
明治のウサギバブルを調べているうちに、昭和初期に「アンゴラ狂乱」という第2のウサギバブルがあったことがわかりました。「アンゴラ黄金時代」とも言います。こちらは愛玩用のウサギではなく、毛織物の材料になる毛を取るためのアンゴラウサギです。アンゴラウサギの毛は現在でも高級品ですが、当時もアンゴラウサギから取れる毛が高騰したのです。明治のウサギバブルとは比較にならないほど全国的に大きく広がったバブルだったようです。明治初期、昭和初期と、2度もウサギバブルがあったとは驚きです。
参考文献
「ウサギの日本文化史」赤田光男 図版も同書より
青山経済論集第64巻第4号より「明治の兎バブル」高嶋修一
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