学術会議任命拒否問題の真相
学問の自由に対する侵害は明らか
菅首相が10月26日のNHKテレビ「ニュースウォッチ9」(午後9時)に出演し、日本学術会議の会員候補6人の任命を、拒否した問題をめぐり、「同会議は民間出身や若手の会員が極端に少ない。一部の大学など、一定のところに多く固まっていることも事実だ」と指摘した。
また、「誰かがもう一度、組織全体の見直しをしなければいけない時期ではないか。民間出身者や若手研究者、地方の会員も選任される多様性が大事だ」とも述べた。語るに落ちたとは、こういう発言のことをいう。唖然とした。
学問、アカデミズムの何たるかも間違っているし、今回の任命拒否の真の狙いも明白に吐露している。実に恐ろしい政権であることが、早々に見えてきたのである。
この「任命拒否問題」は3つの意味で重要である。
- これは学問の自由への悪しき侵害であり、民主主義に必須の説明責任の放棄である。
- 人事に淫する菅政権の本性が、明らかになったことである。
- その統制的姿勢は、メディアにも向けられている。
今回の任命拒否に対し、メディアがどれだけ粘り強く継続的に報道し続けられるかが問われることになる。まず、第一の論点だ。なぜ任命拒否されたか、である。
明確なのは、6人には安全保障法制、共謀罪など、安倍政権の重要法案に反対したり、批判的な意見を述べたりしていたという共通点があることだ。学者としての業績については、推薦した学術会議側の判断であり、政府が口出しすることではない。
となれば、菅首相は口を閉ざしているものの、過去の政府批判や、反政府的言辞が排除の理由になったとみるのが合理的である。だとすれば、憲法23条が保障する「学問の自由」の侵害と批判されても仕方がない。戦前には権力による厳しい思想統制があった。
例えば、京大の法学者が弾圧された滝川事件や「天皇機関説」を唱える学者が告発される事件があった。もともと学術会議は、こうした学問の弾圧が結果的に、戦争に協力する科学者を、作り出してしまったことへの反省に立って、作られたはずだ。
菅政権に、そういった歴史的経緯に対するリスペクトが、全く見られない。
戦前の思想統制の暗い歴史を彷彿とさせる。「ネトウヨ」が喜々として「学術会議=共産党の巣窟」とバッシングしている様相はぞっとする。日本学術会議法は、「優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦」し、日本学術会議の「推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」と定めている。
「推薦に基づいて」は、任命はあくまでも形式に過ぎず、推薦通りに任命すると理解するのが当然である。実際、例の2億円近くを使って「国葬」をした中曽根首相が1983年の国会答弁で「政府が行うのは形式的任命にすぎない」と明言している。
2018年、安倍政権下で「推薦のとおりに任命すべき義務があるとまでは言えないと考えられる」とするお手盛りの解釈変更文書を作ったようだが、中曽根が敷いた路線を崩すには小細工が過ぎる。
むしろ憲法6条の「天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する」の解釈と同等、学術会議に対する首相任命権は、天皇の総理任命兼と同等に形式的なものと解する方が政治と、科学の関係からしてふさわしい。
菅首相はこの人事について、変更するつもりはないと突っ張っているが、百歩譲って
その判断が変わらないとしても6人をなぜ排除したのか、その理由を説明する任命権者としての最低限の責任を有する。「推薦された方をそのまま任命してきた前例を踏襲してよいのか考えてきた」と語っているが、それも首をひねる論理だ。
前例打破を政権の看板に掲げるのはいいが、政治の科学への介入を正当化するものにはならない。悪しき前例は変えればいいが、良き前例は踏襲されてしかるべきだ。実際、歴代自民党政権は安倍政権まではそうしてきた。それが本来の保守主義ではないのか。
「誰かがもう一度、組織全体の見直しをしなければならない時期ではないか」
(10月26日のNHK放送での首相発言)は、その意味で重大だ。
首相はすでに10月10日付朝日新聞で「学術会議のあり方の見直しを歓迎したい」と述べている。それを受けて河野太郎行革相は、学術会議を、行革の対象とすると表明した。年間約10億円の予算をめぐって「適切な金額かどうか」を注視していくと。
一方、自民党は学術会議の課題を検討するプロジェクト・チームを設置した。下村政調会長は「納税者の国民の立場から在り方を議論する」と述べた(10月14日付朝日夕刊)。学術会議が国費を浪費しているかの口ぶりに、世論誘導の意図が垣間見える。この流れは実に危険である。1969年8月に起きた「平賀書簡問題」の如くに進んでいく可能性が極めて高い。
この平賀問題というのは、ようするに当時、反体制集団とされていた青法協(青年法律家協会。憲法擁護を掲げる若手法曹の団体)会員だった地裁判事に対し、同地裁所長が裁判官の独立を侵害する裁判干渉と口止めの書簡を自宅に送付。後日、その事態が漏れて同地裁判官会議で書簡を送付した平賀署長を厳重注意としたもの。
ところが10月に他の地裁所長が「反体制集団である青法協加入の裁判官たちによるデッチ上げだ」との主張を公表(飯守所見)。事態は一気に裁判官の団体加入問題(青法協潰し)へとすり替わった。最高裁(保守派の長官)は、この流れに則って同年11月以降、青法協会員裁判官に脱会を勧告。その総仕上げとして71年4月には青法協メンバーの地裁判事補再任拒否(首切り)。
最高裁は「人事上の機密」として拒否理由を開示しなかった。この事態以降、青法協会員裁判官への差別人事が相次ぎ、結局、青法協は消滅していったのである。このままでは「日本学術会議」は潰されるか、民間の一団体として何の発言力も持たない組織としての残存ということになろう。
官僚を制する首相の執拗性
第二に、安倍、菅政権は人事をもてあそぶことに淫してきたが、今回、図らずもその行き過ぎが露わになった、というのが事の本質ではなかろうか。今回の件は、安倍時代から続いてきた一連の、霞が関人事介入の延長線上にあると捉えるべきだ。
例えば、前川喜平氏が文科省事務次官を務めていたとき、文化功労者選考分科会委員選任(閣議了解事項)をめぐり、官邸の露骨な介入があった。文科省案を官邸に示したところ、委員候補2人が突き返されたという。杉田和博官房副長官は、2人を拒否した理由として、「過去に安倍政権批判の発言があった」と述べたという。
もちろん、杉田氏の一存で決めたものではない。菅官房長官と相談の上、決定したことだ。この前川発言は重要である。文化功労者という国を代表する文化人を選ぶ際に、任命権者側が政権批判を踏み絵にしていたことを隠さなかったからである。
前川氏によれば、2016年の文化庁長官人事でも「菅裁定」があった。官僚出身の女性候補が菅氏から退けられ、結局菅氏の意中の人として伝わってきた宮田亮平・東京芸大学長に決まったという。
森友学園問題への告発以来、安倍政権に対して一貫して批判的な前川氏だからこそ、
こういった具体的なエピソードを正確な記憶力の下、再現してくれるわけだが、この手のことは、多分相当数あると思われる。
メルマガ&掲示板「イーグルフライ」より一部抜粋しています。
全文を読みたい方は、イーグルフライ掲示板をご覧ください。
(この記事は 2020年11月26日に書かれたものです)