大阪・関西万博は崖淵に追い込まれた
大阪・関西万博の開催が危ぶまれている。
開催そのものの前に「パビリオンの建設が間に合わないのでは?」と、大きく報道されはじめたのは、この夏のことだった。
大阪の万博といえば、1960年代生まれの方々にとっては、50年前の日本の高度成長期に開催された「EXPO’70」のイメージが大きい。
そのため、万博=“パビリオンが立ち並ぶお祭り”という印象を持っている。パビリオンとは「仮設の小屋」という意味ではあるが、出展各国が思い思いの趣向を凝らし、お国柄や独自のデザイン表現によって建物が各国のアイコンとして表現されるものだ。
50年前は、その形状や色、工法や素材でこれまで見たことのなかった未来的な、造形表現がなされていた。
特にEXPO’70においては、第二次世界大戦および太平洋戦争から四半世紀という時期でもあり、敗戦国であった日本の国際社会への復帰という意味で、1964年の東京オリンピックと対を成したイベントといえる。
また、大戦後にそれまで数百年、数十年もの間、大国の植民地であったアジア・アフリカ諸国の独立も続いた時期であった。
それゆえ現在まで続く「多様な国際イベント」のひな型が、ここで生まれたといってもいいだろう。
前回の大阪万博こそが、近代の万博イメージをつくったといっても過言ではない。その、歴史的な意味をもつ大阪の地に、五十数年の時を経て万博が帰ってくる。
その意味では、もっと盛り上がっていいはずのイベントなのだが、率直に言って、人々からの関心は思ったよりも、はるかに低い。
ご当地の関西地域ですら50%どころか、20%以下の期待度でしかない。
むしろ皮肉なことに、7月の“パビリオン建設に黄信号”という報道によって、その開催予定が思い出されたというのが実情のようだ。
東京五輪と大阪万博の組み合わせ
1964年の東京オリンピックと1970年の大阪万博という、高度成長期の一連の歴史的イベントと対をなすがごとく、2020年東京オリンピックと25年大阪・関西万博が、わが国の失われた20年もしくは、30年と呼ばれるような低成長期に半世紀を経ながら位置しているのは、象徴的ともいえる事態だろう。
さらに、両者を特徴づけるのが、この数年、世界中を席捲したコロナ禍の影響だ。
結果として、2020年の東京オリンピックは開催を1年延期されただけでなく、多くの人々が集まる前提の国際イベントにもかかわらず“無観客による開催”という、前代未聞の事態となった。
それ以前から国民的な議論を呼び、問題視されていた新スタジアムの建設をはじめ、大型イベントスペースの存在がまったく無駄な投資となってしまったことは記憶に新しい。
この一連の出来事は、人々にとって、すべてネットワークを通じた“情報体験”として得たものである点が、非常に現代的といえる。
それゆえ、日本国内で開催されたにもかかわらず、いまだに歴史的イベントというリアリティが希薄なままだ。
そのコロナが、5月から一般の疾病と同様の5類扱いとなるやいなや、すべての問題がかき消えたかのように「4年ぶり」なる枕言葉のもとで、全国ほとんどのイベント、伝統行事が復活したのである。
9月下旬現在、「第9波」の只中で、東京都で毎日1万5千人クラス、全国で10万人クラスの感染者が報告されているのに、もはやマスク着用は2割以下に、アルコール消毒液は在庫の山、アクリルの仕切り板は切断してアクセサリーグッズとして、販売されている。
この国は、過去の災いを実に都合よく忘れてしまう国なのだ、ということを実感するには、
見事な時系列だった。
建設申請ゼロの恐怖
さて大阪・関西万博について、突如降って湧いたように報道され始めたのは、そんな最中のことだった。
朝日新聞7月1日付のスクープ「海外パビリオン、建設申請ゼロ」である。
この記事に、筆者は当初、建築物の新築の際に必ず役所に届け出る「建築確認申請」のことなのだろうと思っていた。
同申請とは、建築物の新築をする際、完成した設計図を役所に提出し、遵法性や構造安定性などを確認してもらう手続きのこと。
つまり、パビリオンの平面図=間取りとか、立面図=見た目の形とか高さとかはすでに決まっていて、工事にかかる直前の手続き書類が、いまだ提出されていないのか、と解釈していた。
そのため、「コロナ禍警戒か、福島の汚染水海洋放出懸念か?マァ、それなら日本の担当官僚がしっかり説明すれば、2~3ヵ月中に提出することになるだろう」ぐらいにしか思っていなかった。
ところが、実際は「建築確認申請」ではなく、万博協会への「建設申請」だった。いわば参加表明段階のものが提出されていないことがわかった。
となれば、設計図の作成などはまだまだこれからということだ。ましてや建築確認申請による遵法性や安定性の確認などは、さらにその先のことだ。しかもこれは、スケジュールだけの問題にとどまらない。
設計内容や遵法性・安定性の確認がなければ、正確な工事金額などは、はじき出せるわけがないのである。
逆に言えば、それらを無視した、いきなりの工事契約など、当てずっぽうで算出し、必ず後々に不足の事態により予算が倍増となるのは火を見るより明らかなのだ。
これでは、設計図がないままに、予算が倍増、さらに倍増となっていった新国立競技場問題とまったく同じ。完全なる二の舞いだ。
言うまでもなく新国立競技場とは、2020年東京オリンピックのメインスタジアムである。
当初、イラク出身の世界的建築家のデザインが採用されたものの、このデザイン案を再現することに技術的な問題を抱えたまま、着工予定のはるか以前の2014年頃から予算が足りないと倍増、さらに増やして…と、大騒ぎになった事件である。
そのとき、見切り発車で進めるならば、予算は天井知らずにしてもらうしかないと、ゼネコンから要望が出されていた。
つまり、完成設計図がない建設工事というのは、各所で予想と予測をもって安全率を見ていくしかない。
その結果、下請け工事会社からは素材調達まで2割増し3割増しの回答しか得られなくなり、結果として元請け会社も2割3割増しの工事予定金額を算定せざるを得なくなるのが必然なのである。
しかも大阪・関西万博では、現在、各国パビリオンがそのような状況にある。万博参加表明国は150カ国を超えるといわれている。その150のパビリオンのすべてで「工事見積のための設計図のない状態」で、工事契約をすることなんぞ不可能だ。
仮に強引に契約を進めれば、未知数の工事金額を、安全率の担保のため抱え込んでしまうことになり、5割6割増しは当たり前、となってしまう。
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続きを読みたい方は、「イーグルフライ」よりご覧ください。
2023/09/26の「イーグルフライ」掲示板より抜粋しています。
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