日銀はポスト黒田で政策転換できるのか
黒田日銀の総括
23年4月に任期満了を迎える日銀黒田総裁の後任人事が本格化する。異例の量的質的金融緩和で日本経済の浮揚を目指したが、目標は達成されていない。新総裁の選任は「アベノミクス」を継続するか見直すかを意味する重要な政治判断となる。
だが、岸田政権に相次ぐ関係の辞任で不安定さを増しており、総裁後任の人選も混迷している(一説に岸田政権では来年夏の統一地方選に自公両党が勝てないとし、23年4月までに退陣となるとの味方が与党内にあるとも)。
日銀は日本の中央銀行として「物価の安定」を目的に金融政策を実行し、経済の健全な発展に貢献することを日銀法で定められた「物価の番人」である。
また、日本の通貨や紙幣である銀行券を発券する唯一の金融機関であり、金融政策を通じて通貨の金銭価値の維持を図るため、「通貨の番人」でもある。総裁は日銀のトップとして、適切な金融政策を判断し、実行する重責を負う。
12年末の総選挙で自民党が圧勝し、民主党から政権交代した。首相に返り咲いた安倍首相(当時)は「デフレからの脱却」と、「富の拡大」を図るため「3本の矢」からなる経済政策「アベノミクス」を打ち出した。
第一の矢「大胆な金融政策」
金融緩和で経済に流通するマネーの量を増やすことにより、
デフレマインド(物価が下がるとの心理)の払拭を図った。
第二の矢「機動的な財政政策」
当初は約10兆円の経済対策予算により政府が需要を創出した。
第三の矢「成長戦略」
規制緩和などによって民間投資の喚起を目指した。
当時は08年9月のリーマン・ショックを契機とした世界同時不況に陥り、11年3月の東日本大震災で急激な円高が進むなどで、GDPは減り続け、日本経済は低迷していた。
リーマン・ショック発生時に福田政権の経済財政担当相だった与謝野氏(故人)は、「日本にももちろん影響はあるが、ハチが刺した程度。
これで日本の金融機関が痛むこと絶対にない。沈着冷静な行動が求められる」と述べた。日銀の白川総裁(当時)も日本の金融システムが安定していることを重視し、FRBなど欧米6中銀の協調利下げに同調しなかった。
金融緩和による為替調整にも否定的で、09年総選挙で政権交代した民主党政権も東日本大震災後の円高をあまり重視しなかった。
このような背景を基に、アベノミクスは黒田日銀の金融緩和政策の中核となった。政府・日銀は「2%の物価安定目標」を掲げ、黒田総裁は13年4月、量的質的緩和を行なった。
それまでの日銀と異なり、金融緩和の度合いを測る目安を、「マネタリーベース」(資金供給量)に変更。12年末に138兆円だったマネタリーベースを2年で2倍に増やすとした。
「マネタリーベース」は日銀が供給する通貨の総量、つまり市中に出回るお札と硬貨の総量を指す。
黒田日銀の量的質的緩和とは、お札と硬貨の総量を増やせば、金融機関に集まるマネーも増え、企業への融資も増えるので経済が活性化し、デフレからインフレになるという考えだった。
これは米経済学者のミルトン・フリードマンが提唱した「新貨幣数量説」に基づくもので、中銀が政策金利を上下させて金融機関の貸し出しを調整する従来のやり方である「伝統的金融政策」と異なる。
この意味で、量的質的緩和は「非伝統的金融政策」と呼ばれる。安倍氏が日銀の伝統的金融政策に批判的だったことも大きい。
日銀は福井総裁時代の06年3月、量的緩和政策を解除し、ゼロ金利政策に移行。7月に政策金利を0%から0.25%に利上げした。
政府内では利上げが時期尚早との声が強く、9月に発足した第1次安倍政権は、日銀の利上げによる景気腰折れが起きたと批判を強めた。
アベノミクスで非伝統的金融政策が重視された理由は、日本経済がバブル崩壊後に長期低迷したため、日銀の政策金利がすでに大きく低下していたこともある。
伝統的金融政策ではこれ以上金利を下げる余地がないと考えられていた。いわば、これまでの金融政策でうまくいかないから、違う金融政策をとったのである。
黒田日銀はその後も、市中への資金供給増加を理由に、上場投資信託(ETF)や、不動産投資信託(REIT)を買い入れるなどマネタリーベース増加を続けた。
日経平均株価は上昇したが、インフレ目標は達成できないまま、マネタリーベースは22年11月現在、610兆円まで膨らんでいる。
一方、インフレ率を示す直近10月のCPIは前年同月比3.6%上昇している。
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(この記事は 2022年12月05日に書かれたものです)
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