米中の狭間で日本はどうすべきか
田中角栄の対中国政策の意義
ペロシ訪台が米中関係の歴史的重要事項に位置付けされることは、ほぼ間違いないであろうし、日本の安全保障の質的転換の節目になったであろうことも推測しうる。
日本は田中角栄政権が日中国交正常化(1972年9月)を実現した際に「一つの中国」を受け入れている。田中が日中国交正常化に取り組んだのは、世論がそれを求めていたからであった。
そのころの日本社会は米国のニクソン大統領が訪中計画を突然発表したことにショックを受け、米国に対する不信感が強まる一方、日中国交正常化を求める声が大きくなっていた。
また、もともと田中が日中国交正常化に関心を持っていたことも大きい。田中は外務省中国課長(橋本恕氏)と日中問題について勉強会を行っており、橋本から強い影響を受けていた(橋本は外務省のいわゆるチャイナスクールのメンバーだった)。
この勉強会が始まったのは、田中が佐藤栄作内閣で通産大臣に就任する直前のことだった。つまり、田中はニクソンショック(1970年2月)を受けて勉強会を始めたわけでも、首相になってから慌ててにわか勉強を始めたわけでもないということだ。
橋本は田中の秘書であった麓邦明と早坂茂三の依頼で、日中国交正常化を実現するための見取り図を作成している。
そこで、以下のようなことをレポートにまとめている。
・中国との国交正常化はどのような段取りで進めていくか
・国交正常化を行うにあたってどういう問題があるか
・日中が国交正常化に踏み出した場合、日本と米国の関係はどうなるか
・ソ連との関係はどうなるか
・他のアジア諸国にはどのような影響を及ぼすか
橋本が日中国交正常化の絶対条件として提示したのは、台湾の国民政府と外交関係を絶つこと、つまり「一つの中国」を認めることだった。橋本は田中に「一つの中国」ということでないと、中国は絶対に正常化に応じませんよ」と説明していたという。
田中は通産大臣時代に衆院予算委員会で、中国事情に詳しい自民党の川崎秀二に国交正常化への決意を問われ、以下のように応じている。
「日中国交正常化の第一番目に、たいへん御迷惑をかけました、心からおわびしますという気持ち、やはりこれが大前提になければならない」
「日本文化は中国文化によって育ったということでありますし、同じ基盤に立つ東洋民族でもございますし、恩讐を越えて、新しい視野を立場と角度から日中間の国交の正常化というものをはかっていかなければならない」
このころ日中はすでに「一つの中国」を受け入れ、台湾と断交することを決意していたと思われる。公の場で、そこまで明言しているわけではなかったが、橋本の証言を踏まえれば、そう判断するのが当然であろう。
当時の米国の対中政策
日本が中国との国交正常化に前のめりになっていたころ、米国は慎重な姿勢をとっていた。ニクソン政権の外交を仕切っていたキッシンジャーは、「一つの中国」を認めるつもりはなかった。
ただ、ニクソンが訪中(1971年7月)し、毛沢東主席や周恩来首相と会談したことは世界中に多くの衝撃を与えた。
当時、米国はベトナム戦争後の東アジア情勢を安定化させるため、中国への関与を強めようとしていた。また、核戦略で米国を追い抜こうとしていたソ連を牽制する必要もあった。
他方、中国は国境を巡ってソ連と対立し、ソ連の核攻撃を恐れていたこともあり、米国との和解を模索していた。
キッシンジャーの卓越した水面下の調整のもと、ニクソン訪中が実現したというわけである。しかし、このとき、ニクソン政権は国際法上、中国との関係は変えておらず、新しい約束も何一つしていない。
米国はこの時点では「一つの中国」を認めることは考えていなかった。
それは、キッシンジャーと中国の喬冠華外務次官が徹夜でまとめあげた米中共同声明「上海コミュニケ」を見れば明白である。
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(この記事は 2022年9月25日に書かれたものです)
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