日韓併合条約の実情を暴く!
日韓関係悪化の根源とは
昨夏は、日韓関係が国交樹立後54年目にして最悪の対立状態に陥った。
日本政府は首相も外相も、韓国は1965年の日韓条約・請求権協定に違反する行動をとるな、存在する条約、協定を守らないのは国際法違反である、と言い立てた。その口ぶりは「1910年の韓国併合条約も尊重せよ、日本の植民地支配は条約にもとづいた行動だった」とあらためて主張しているように感じられた。
だが、こうした相互間の条約は当時の国際潮流、とりわけポリティカル・パワーの在り方こそが重要であり、日本の韓国植民地化政策が、どの様な展望のもとに実施され、韓国側が当時、どの様に捉えていたのかが問われなければなるまい。この視点から、本稿は敢えて、事実だけに沿った1910年8月22日の「日韓併合条約」締結当日の動きを記すことにする。
もちろん、だからといって韓国・文政権の主張が正しいとも思わない。確かに当日、寺内正毅・総監子爵と李完用内閣総理大臣が署名した条約が残っている。だが条約の締結は秘密にされ、7日後の8月29日、韓国を併合するとの日本帝国天皇の詔書が公布されるとともに公表されたのである。
この日をもって大韓帝国は消滅し、その領土全体が日本帝国に併合され、朝鮮と呼ばれることとなった。以後日本の植民地支配が35年間続くのである。
1945年8月15日、日本帝国の降伏とともに、朝鮮は植民地状態から解放された。
しかし、日本は米国軍に単独占領されたが、朝鮮半島は不幸にも米・ソにより分割占領されるにいたった。
1948年、ソウルに大韓民国、平壌に朝鮮民主主義人民共和国が建国された。
1950年、朝鮮人民軍が南に侵攻し、朝鮮戦争がはじまった。武力統一の企てである。
ただちに日本を占領していた米軍が出動して参戦。日本は米軍にしたがって、自動的に大韓民国の側につき、この戦争に協力した。
1951年、未だ続く戦争の最中、講和条約を結び独立した日本は、直後から大韓民国との国交樹立交渉を開始。
この交渉の中では韓国側から併合条約の無効性が主張され、これに対して日本政府は併合条約の有効性を主張してやまなかった。
1965年の日韓条約締結にあたっては、この原則的な対立は棚上げされた。
同一の英文正文を双方が自分に都合のよいように自国語に翻訳して第二の正文とし、自国の都合に沿って解釈し、自国民に説明したのである。
日本では、条約批准国会で佐藤栄作首相は次のように答弁した。
「私が申し上げるまでもなく、当時、大日本帝国と大韓帝国との間に条約が結ばれたのでございます。これがいろいろな誤解を受けておるようでありますが条約であります限りにおいて、これは両者の完全な意思、平等の立場において締結されたことは、私が申しあげるまでもございません。したがいまして、これらの条約はそれぞれ効力を発生してまいったのであります」
有効な条約の締結、両者の合意にもとづいた併合だから、謝罪も反省も必要ないというのが日本政府の立場であった。他方で、この日本側の主張に対する不同意が韓国国民の普遍的な立場であったことは明らかである。
その意味では、1965年の日韓条約は両国の歴史認識が正反対であることを露呈している欠陥条約であると言わざるを得ない。であればこそ、日韓両国の間で歴史認識上の対立が顕在化してくるのは避けられないことであった。対立が露呈されれば、それを克服しようとする動きも出てくる。しかし、日本の動きは途方もなく緩慢だった。
韓国で民主主義的国民政府が誕生した1987年(盧泰愚政権)のあと、8年を経て1995年8月15日、村山富市首相が閣議決定にもとづいて総理談話を出した。
「植民地支配と侵略」によって「アジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えた」と認め、「痛切な反省」、「心からのお詫び」を表明したのである。ただ、この談話を契機に日本の中での見解が二分されていった。それでも、日韓条約締結当時の外務省黒田瑞夫課長の主張は一貫していた。
日本側は併合条約など旧条約は、その締結の際に国際法上、条約の締結を無効とするとされる締結者の身体に対する威嚇や脅迫はなかったので有効に締結されたものであり、旧条約が効力を失ったのはサンフランシスコ平和条約により、わが国が朝鮮の独立を承認した時であるとの立場を堅持してきている。
旧条約が初めから無効であったということになると、36年間にわたり積み上げられてきた公法上及び私法上の法律関係が覆される恐れがあり、さらに請求権問題の交渉にも影響する可能性もなしとせず、到底受け入れられるものではなかった
この見解は現在も日本側の公式見解としてあり続けている。今日の日本人と韓国、朝鮮の人々との歴史認識の対立の源泉がここにある。
日韓併合条約調印日の様相
1910年8月22日午前、寺内総監は宮内府大臣、侍従院卿を統監官邸に呼び、この日の御前会議で韓国皇帝は条約締結の決意を「宣示」し、韓国内閣総理大臣を全権委員に任命しなければならないと言い渡した。そしてこの最も重要なる手続を確実に実施するように皇帝に奏上するよう要求した。
二人はそのような責任をとることは困難だと言って拒んだ。しかし、寺内がなおも強く要求すると、ついに屈服した。
二人は寺内の忠告を了承し、ただちに参内し、上奏すると言った。寺内はこの二人は信用できないと考え、統監秘書官を同行させることにした。
午前11時、二人は皇帝に拝謁し30分間、上奏をした。皇帝(純宗)がどのような言葉を発したかは知られていない。結果的に純宗は午後一時に御前会議を開催せよとの勅令を発した。
他方、李完用首相はこの日午前11時、「統治権譲与に関する詔勅案」を閣議決定し、成案を得たので「閣下の承認を要す」との文書を作成し統監(寺内)のもとに送った。この「統治権譲与に関する詔勅案」は寺内から受け取った全権委任状をハングル文に書き換えたものである。
結びに「諸臣はまた朕の意の確断するところを体して奉行せよ」という言葉を加えたのは、この文章が大臣たちの服従を求めることを狙ったものであることを意味している。
もとより閣議決定したというのは完全なる虚偽であった。李完用首相は、この文書を他の大臣にも見せていない。寺内は李完用のこの偽のお伺いに対して、「右及承認也」と書いて返した。寺内が寺内の文章を承認したのである。
午後一時、御前会議が昌徳宮で始まった。李首相が事態を説明。
純宗は黙って全権委任状に自らの名を記し、国璽を印させて、李首相に与えた。ここで李首相は初めて併合条約文を披露し、遂条説明を行った。会議出席者の反応は、いずれも失意に満ちていた。
李首相は「成り行きからどうしようもないのだ」と弁明したが多くの大臣は無言だった。皇帝が発した言葉は何一つ記録されていない。
午後四時、李首相は純宗の署名した詔勅、全権委任状をもって寺内の待つ統監官邸へ赴いた。寺内はこの文書に目を通し、「其の完全にして妥当なるを承認した」と書いている。
自分が作って渡した文書に承認を与えるのはこれが二度目である。承認したとはあまりに欺瞞である。
このとき寺内の方は彼が示すべき全権委任状を提示していない。ここで寺内は「時局解決がこの如く静粛かつ円満に実行せらるるは双方の幸福にして最も祝すべきことだ」と挨拶した。
それから寺内と李首相の二人は併合条約二通、日本語版とハングル版に署名した。寺内は「統監子爵寺内正毅」と署名し、李は「内閣総理大臣李完用」と署名した。条約文はどちらも統監府の側で用意したものであった。
結局のところ、併合条約の調印とは、対等な条約を結ぶ資格をもたない者同士=支配国の代表者とその指揮監督をうける被支配国(保護国)の役人が演じた条約調印の演劇、芝居であった。
統監寺内が、あらためて全権委任状を提示せずとも日本国家の代表者であったことはまぎれもない。その彼が署名した。そこまでは確かである。
しかし、他方で署名した大韓民国総理大臣李完用は、この国の外交と内政を指揮する統監寺内の命令にしたがって、その許可を受けて、寺内から与えられた皇帝(純宗は日本が事実上任命した人物)の全権委任状の勅書に皇帝の署名と玉璽を得て、寺内のもとを訪問し、寺内から与えられた併合条約に署名した。
署名は確かに自分の手でしたのだが、すべては寺内統監の命令、指示によってなされたのであるから、李氏は寺内氏のエージェントにすぎない。だから、この条約締結なるものは、寺内が寺内と署名した一人二役の演劇、一人芝居にほかならないのである。
ただ、1897年に朝鮮王朝が国号を大韓帝国とあらためて以降の国状は、地方の利権豪族の乱舞そのもので「国体」の姿に程遠かったことは間違いなく、日本が安全保障上の観点から「保護国」化した点は韓国側は今でも一切、言及しておらず「関係ない」の一言で今日に至っている。