物語 ディーラーは死なず

為替ディーラー物語『ディーラーは死なず』
日々の外国為替相場にリンクして進行するディーラー物語。相場動向を物語にしているため、相場で何が起きているのか相場を疑似体験でき、相場の本質の理解に役立ちます。
前回の物語は、こちらよりお読みいただけます。
https://real-int.jp/articles/2095/
最終章 第1回「休暇明け」
長期休暇明けの初日(8月20日)、朝方の市場が落ち着くと、東城の執務室へと向かった。久々に見る東城の顔は日に焼けていて、一段と精悍に見える。
「ゴルフですか?」
「ああ、人事の島に誘われてな。メンバーに頭取の中窪さんがいた。仕事や行内の話はまったく抜きの楽しいゴルフだった。もっとも、ゴルフよりも‘俺と頭取との間を風通し良くしておきたい’というのが、島の狙いだ。それはそうと、お前のMLB観戦の方はどうだった?」
「楽しかったですが、今年のヤンキースの不甲斐なさには呆れました。ジャッジのDL(故障者リスト)入りで打線も低下、先発投手陣も振るわず、それにブルペン陣も論外と言った状況ですから。鉄壁の守備を見せたジーター、完璧なクローザーを務めたリベラ、そして通算696本のホームランを放ったA・ロッドが活躍していた頃のヤンキース、懐かしい限りです」
「そうだな。まあそれでも、久しぶりに向こうの野球に没頭できたんだから、少しはゆっくりできたんじゃないのか?」
「はい、お陰様で。ところで、山下の件ですが、やはり横尾さんのハラスメントが少しずつ始まった様です」
「というと?」
「現地に着いたばかりの家族のケアで、山下が7時頃に帰ろうとすると、横尾さんが‘もう、帰るのか? 稼ぎの良いヤツは気楽でいいな’とか、皮肉を言うそうです。日中もディーリングの件数を見ては、‘もっと手数を増やせとか、客のフローを増やせ’とか、頻繁に口を挟んでくるらしいのですが、あの元気印の山下も流石にウンザリしている様子でした」
「そうか、横尾が評判通りの男だったってことか。それで、山下は大丈夫なのか?」
「ええ、今の処は大丈夫かと。ただこの先、横尾さんのハラスメント・レベルは上がってくると思われます。山下が持ち堪えてる間に、手を打つ必要があるかと考えますが、何か妙案はありませんか?」
「妙案はないが、頭取が来週、ニューヨーク支店に出向く予定だ。支店長の清水さんの内規違反があったばかりなので、視察に行くらしい。その時、山下と会う様に頭取に伝えておく。山下には、ありのままを頭取に伝える様に話してしておいてくれ。取り敢えず、頭取の判断に任せよう」
‘ゴルフで東城と頭取の距離が縮まった様だ。頭取も人を見る目があるな。まだまだIBTも大丈夫か’
「了解しました。私も山下をケアする様に心がけておきますが、頭取に宜しくお伝え下さい。それでは失礼致します」
ソファーから立ち上がり、軽く頭を下げ終えると、ドアに向かった。ドアノブに手が掛かったところで、東城の声が聞こえた。
「俺のために、お前までくだらない派閥争いに巻き込んでしまった様だな。そのうち、‘下田’の寿司で労うよ」。
「六本木のクラブ付きでお願いします」と言いながら、振り向かずに右手の親指を立てて見せた。
‘部下が上司にとる行為ではないな’
でも、何故かこの時はそれが許される様な気がした。
翌日(21日)の東京で、ドル円は心理的節目の110円を割り込み、109円78銭まで沈んだ。節目を割り込んだことで、ドルロング(買い持ち)の落としや衝動的なドル売りも出るが、客のフローは圧倒的にドル買いが多い。
沖田や彼のアシスタントは、客のドル買いで掴まされたショートを抱えて、カバーに苦戦している様だ。昼近くになって、相場は110円台を確実のものとした。
「だいぶカバーに手こずった様だな?」沖田に言う。
「ええ、客のフローで2000万ヤラレました」沖田が平気な顔で答える。
「そっか、それで今のポジションは?」
「30本ロングです」
「ならば、朝のヤラレは取り戻せるな。長期休暇明けの俺には、今の相場は分からないが、感覚的には一旦戻すと思う。俺も手伝うよ。50本買っておくか。気配は?」
「マルニ~マルヨン(110円02~04銭)です」
「買ってくれ」
「05です」
「了解。この相場、外がもう一回売ってくるはずだ。そのとき、再び10円(110円)を割り込む様なら、ドルが崩れる。ただ、10円を耐える様なら、今週中に11円台への反発もあるってとこか。利食いはどうする?」
「課長のポジションと合わせて80本ロングですから、30銭も抜けば、ヤラレと相殺してもお釣りがきます。とりあえず、40(110円40銭)で40本、45で40本、それで如何でしょうか?利食いオーダーが付いた後、110円を割り込まない様であれば、再びロングする。そんな戦略で行こうと思います」
「ああ、ヤラレを早く取り戻しておいた方が、後が楽だ。それで良い。それに、今の相場は長期休暇明けの俺よりもお前の方が見えているはずだ。任せるよ」
二人のポジションはその日のニューヨークで実りを生んだ。それ以降、ドル円は110円を割り込むことなく上昇し、金曜日に111円48銭まで跳ねた。
その晩、沖田を連れて青山の‘Keith’を訪れた。留守の間、俺が任せた諸々の業務を完璧にこなしてくれた礼のつもりである。
重いドアを押し開けると、「いらっしゃい」といういつもの声が聞こえた。マスターである。まだ7時過ぎだと言うのに、テーブル席は満席で、仕方なしにカウンター席に座ることにした。
「お久しぶりです」
マスターが穏やかな笑みを浮かべながら話しかけてきた。
「ええ、ずーっと、MLB観戦行脚でアメリカ中を飛び回っていたので。その間、彼にデスクを任せていたんですが、しっかりと守ってくれました。今日は彼に高い酒を飲ませてあげてください」
「そうですか。それじゃ、マカランの18年は?」
「そいつは良いですね。それじゃ、グラスビールの後、それをロックでお願いします」
沖田が遠慮なく言う。
続けざまに「BGMはコルトレーンの‘ Say it なんとか’の入ったアルバムをお願いします」
‘オーダーの仕方が山下に似てきたな’
「Say it( over and over again)の入ったBalladsですね。かしこまりました。仙崎さんの飲み物は沖田さんと同じでよろしいですか?」ラフロイグでなくて良いのかという意味だ。
「いや、僕はビールといつもので。それと山形牛があれば、ステーキ二人分、お願いします」
「はい、久々に入荷しています。了解しました」
「留守中は何かと世話になった。ありがとな」
ビールグラスを目の高さまで上げながら、沖田にあらためて礼を言った。
「いや、課長がいない間に収益を増やすこともできずに、返って申し訳ありませんでした」
「事務処理、マスコミ対応、そんなどうでもいい仕事が増えたんだから、収益増までは無理だろう。それはそれとして、どうやら横尾さんが山下にプレッシャーを掛け始めたのが気に懸かる」
「そんなに酷いんですか?」
「陰湿なパワハラってとこか。相手をジャブで追い詰め、疲れ果ててガードが下がったところでのストレート狙い。そんな戦略だろうな。山下がストレートを浴びる前に、横尾さんの矛先が俺に向いてくることを願うよ。
頭取が来週ニューヨークに向かうらしいが、その際、頭取が山下に直接話をする様、東城さんが手配してくれた。今のところは、頭取の差配に頼るしかない」
「そうですか。山際さんがダウンしなければ、横尾さんのニューヨーク転勤もなかったのに・・・。山下もツイてないですね」
「ああ、それもそうだが、未だに日和と住井との間に軋轢があることが根っこの問題だ」
話が重くなってきたところに、ステーキが運ばれてきた。沖田が「旨そう」と言いながら、素早くフォークとナイフを手にした。そんな沖田の仕草が山下と重なる。
それから二時間ほど‘Keith’で飲み、神楽坂の社宅に戻った。酔った勢いでデスクに向かうと、PCにログインした。国際金融新聞の木村宛てに来週のドル円相場予測を送るためである。
木村様
今週から現場に復帰しました。
沖田の方が丁寧な原稿を書くので、彼の方が木村さん向きかもしれませんね。
沖田に引き続き送らせましょうか?忌憚なく、仰ってください(笑)。
ところで、来週は「基本的には110円後半~111円半ば」で、揉み合う展開かと考えています。
下押した後なので、やや上に振れやすいかもしれませんが、精々112円前後まででしょうか。
チャートやテクニカルポイントを見る限りでは、111円半ばが重そうなので、そこを試すとすれば、結構腰を使うかと思います。
従って、111円半ば以上を買い上げるエネルギーが不足する可能性が高く、後に反落という展開も考えられます。
それ以前に、111円半ばテストにフェイルすれば、早めの反落とい展開もありえるかと。
予測レンジは「109円20銭~112円15銭」としておきます。
休み明けなので、ラフな予測ですが、ご容赦ください。
(あっ、いつもラフでしたね)
ところで、今更感のあるダラーラが、何故ブルームバーグで「通商協議が通貨の問題を含む傾向が強まる」なんて語ったのでしょうかね?
何か分かりましたら、お教えください。
IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了
送信し終えると、再び山下のことが頭に浮かんできた。
‘心の重い晩だな’
デスクに置いてあるラフロイグのボトルを手に取ると、琥珀色の液体をグラスに注いだ。
BGMで部屋の空気を変えるため、ウォークマンとBoseのMusic System とをBluetooth 接続した。選曲したアルバムは‘Pat Metheny の ‘One Quiet Night’。
‘流れる様な重いギターの音色が心に沁みる。Bad Choiceだったかな’