物語 ディーラーは死なず

為替ディーラー物語『ディーラーは死なず』
日々の外国為替相場にリンクして進行するディーラー物語。相場動向を物語にしているため、相場で何が起きているのか相場を疑似体験でき、相場の本質の理解に役立ちます。
前回の物語は、こちらよりお読みいただけます。
https://real-int.jp/articles/2032/
第56回「ミッドタウン・トンネル 」
月曜日(25日)、‘トランプ大統領が中国資本による米ハイテク企業への投資を制限する’との報を受けてドル円は109円37銭まで下落したが、その直後にそれを否定する政府高官の発言があり、110円台へと急反発した。
先週末に作ったショートのコスト(110円65銭)が良過ぎたため、109円前半で利食いそびれた格好である。
このディールで山際が出した損失200万ドルを完全に取り戻すことが出来たのに、明らかなミスだ。
だが、運の良いことに、翌日(26日)のオセアニア市場で再びドルが下がり出した。
6時(NY午後6時)過ぎ、東京に電話を入れた。電話に出たのは小野寺である。
「この売りは何だ?」
「昨日報道された米国の中国資本に対する規制話がぶり返した様です。コストの悪い俄かロングの落としの様ですが・・・」
「そうか、これから俺の言うことをよく聞け。その結果次第で、俺が今週中にもこっちを引き払えるかどうかが決まる」
「はい」
緊張しているのが伝わってくる。
「必ずこの局面で、昨日の安値(109円37銭)を試しに行くはずだ。だが、37を抜けない場合は、この流れは一旦止まる。つまり、お前が37を抜けないと思ったら、適当に50本買え。抜けた場合は、自分で50本の買い場を見つけろ。分かったか?」
「はい、了解しました」
「結果は電話をくれ。そっちの午前中には決着がつくはずだ。それじゃ、頼んだぞ」
「頑張ります」
午後11時を回りかけた頃、小野寺から電話が入った。
「課長、今のところ下は37(109円37銭)までです。自分の判断で43で買いました。月曜からの下値テストはこれで3回目なので、この局面での下値更新は難しいと判断しました。それで宜しかったでしょうか?」
「ああ、上出来だ。お前がそう思い、そう感じたのなら、それで良い。よくやってくれた。ありがとう。これで、来週からはそっちで働けそうだな。そう沖田にも伝えておいてくれ。それじゃ、来週会おう」
「失礼します」
‘一戦終了だな’
翌朝(27日NY)、8時に支店に向かった。少し遅めの出勤である。
支店のあるビルのセキュリティーを抜け、エレベーターで21階へと昇る。ディーリング・ルームに入ると、もう空気が動いているのが感じられた。ディーラーの朝は早い。
「Good Morning! お早う!」と皆に声をかけながらデスクへと向かう。
ディーリング・チェアに座りながら、山下に朝の気配を聞いた。
「トランプの中国投資制限の件、当初伝わったよりも緩くなるという話で、少しドルがビッド気味です。彼の右左の発言で振り回されて、ウンザリですね」
「まったくだな。それでも、彼の言動で実際に相場が動く。仕方ないな。ところで、昨日までで230万ドル程稼いだから、例の件は決着が付いた。週末には東京に帰る。ここに来るのは今日が最後だ」
「そうですか、また淋しくなりますね」
「そうだな。また定例の出張もあるし、数か月後には会えるさ。山際さんの件だが、お前が責任を持って帰りの飛行機に乗せてくれ。
頼んだぞ」
「はい、間違いなく。ところで、来週スイスの横尾さんがこっちに出張してくるそうです。正式の異動日は16日ですが、山際さんの帰国が来週なので、引き継ぎを済ませておくとのことです」
「そっか、お前は手探りで横尾さんとの関係を構築していくしかないな。無茶するなよ。俺はこれから清水支店長のところに報告に行ってくる。それじゃ夜、‘Chisa’で会おう」
支店長の清水には、9時に挨拶に行くと予め伝えてある。約束の9時に支店長室に行くと、直ぐに部屋に通された。
「一応、山際さんの損失は取り戻しましたので、これで帰らせて頂きます」
「そうか、ご苦労だった。しかし、本当に君は凄いやつだな。僅かの間に230万ドルを稼ぎ出すとは。もう少しこっちで稼いでってくれないか?」
‘半ば本気で言っている。調子の良いやつだ。付き合ってられないな’
「もう直ぐ、スイスから横尾さんが来るらしいじゃないですか。相当に優秀な方だとお聞きしてますから、それで十分じゃないですか」
「まぁ、それもそうだ。ところで今回の出張で、頭取から本部制の内規を遵守する様に厳しく言われたが、あれは誰の仕業だ?東城か、それとも他の住井出身者か?」
’自分の咎を顧みもせず、よくもそんなことを聞けたものだ’
「私と思って頂いて結構です」半ば憤りを込めて答えた。
「ほう、随分と潔良いな」
「私は部下を守る立場にあります」
「部下とは山下のことか?」
「部下であれば、誰でも同じです。今回の問題はそもそも支店のローン債権のコゲツキが事の発端であって、ファイナンス本部の問題です。それを無関係の部に皺寄せするのは理に適いません。
ましてや今回、目の前に転勤を控えた山際さんや赴任して間もない山下に無理を押し付けた。あなたは、北米・中南米の頂点に立つ身であり、たかだか3000万ドル程度のコゲツキでその地位が揺らぐとも思えません。帰国すれば筆頭常務、否、副頭取の地位も約束されている。
だが、あなたは自身のキャリアに少しでも傷がつくのを恐れた。私は人生は為替相場みたいなものだと思っています。ディーリングは上手く行くこともあれば、行かないことも度々ある。我々為替ディーラーは、それぞれの意思で一切相場を動かせないからです。
つまり、支店長のご自身の人生も思いのままにならないってことじゃないでしょうか?あなたの部下は組織やそのルールに縛られながら、一生懸命働いている。そうまでして銀行に尽くしている彼らに、内規を歪めてまで余計な負荷をかけるのは如何なものかと・・・」
「仙崎、今この俺に何を言ったか、分かってるのか?お前がさっき言った様に俺はまだ上に昇る。そのことを承知の上での言葉だな。もう日本に帰れ、この馬鹿者が」憤りで声が震えている。
‘勝手にほざけ’
その晩、山下と’Chisa’で夜更けまで飲み続けた。支店長室での出来事は一切口にしなかったが、早晩彼も知ることになる。
山下との別れ際、「何かあったら、必ず俺に相談しろよ」とだけ言葉を残した。
「はい、もちろんです」元気の良いリターンだ。
‘頑張れよ’
木曜(28日)はコロンビア大MBA時代の友人が勤務するニューヨーク連銀を午後に訪ね、その後早々とホテルの部屋に戻り、ベッドに身を投げ出した。
疲れ切っていたせいか、かなりの時間寝てしまった様だ。腕時計に目をやると、時刻は7時半を回っている。もっとも、この時刻のニューヨークはまだ明るく、真昼間の様である。
外が明るいので何となくアルコールを入れるのも気が引ける。だが、自然とミニバーからマカラン18年のミニボトルを取り出し、グラスに注いでいる自分がいる。誰が最初に発した言葉か知らないが、‘滑らかな舌触りと芳醇な香り’とは上手い表現だ。
少し酔いが回った頃、明日、ヤンキース対レッドソックス戦があることを思い出した。
今シーズン、3勝3敗で迎えた第7戦が、ヤンキー・スタジアムで開催される。このところ、ほぼゲーム差なしで首位争いを続けている人気チーム同士の一戦だ。
’行かない手はない’
だが、今更チケットが手に入るはずはない。Sold outを承知の上で、ホテルのコンシェルジュに聞いて見たが、答えを待つまでもなかった。
‘でも、行きたい’
困ったときのMike頼みだ。まさかを祈って電話をしてみた。
‘No kidding!’と一蹴された。
‘それはそうだな’
ドル円相場は金曜(29日)のニューヨークで5月22日以来の高値水準となる110円94銭まで上昇した。山下の話では、NYダウが堅調さを取り戻したことで、このところのショートが切らされたという。
だが、この二日間、自身で相場を見ていない。
‘感覚的には少しドルがビッドだが、依然として上値は重たい。
そんなイメージしか湧かない‘
国際金融新聞の木村へは正直にそのことを伝え、来週の予測レンジ:109円50銭~111円50銭とだけ書いてメールした。
ヤンキース対レッドソックス戦はテレビでしか見ることができなかったが、ヤンキースが8-1で大勝した。これでヤンキースがゲーム差なしの首位に返り咲いたが、当分この2チームの首位争いは続きそうだ。
土曜の午前10時過ぎ、チェックアウトを済ませると、タクシーでJFKへと向かった。フライトは13時10 分発のJL005だ。
車はミッドタウン・トンネルを抜け、トールゲート(料金所)に差し掛かった。
ここの通過には時間がかかるため、運転手は必ずゲート横の’Stay alive’のプレートを見ざるを得ない。安全運転を促す上手い仕組みである。
‘大きなお世話だ。ディーラーは死なない’
ゲートを通過し、クイーンズに入った。束の間のニューヨーク生活もこれで終わりである。
空港に着いた後、搭乗までには相当の間があった。ビジネス・クラス以上が使えるラウンジで、スコッチを飲みながら時間を潰すしかない。
ラウンジの奥のテーブルでニューヨーク・タイムズを広げ、スコッチを飲みながら寛いでいると、「Ryo」と呼ぶ声が聞こえた。
聞き覚えのある声だ。
‘でも、まさかここにいるハズがない’
でもそのまさかだった。志保である。
「どうして、ここに?」
「マイクよ。今日、了がこのフライトで東京に帰るから、一緒に行って来いって」
「そいう言えばアイツ、一昨日の電話で‘何日の何時のフライトだ?’って聞いてたな」
「野球のチケット、ダメだったんですってね。私はその代わりらしいわ」胸の前で両掌を下に広げながら言う。
その仕草で、ふと彼女が愛おしくなり、優しく微笑んだ。
‘余計なことをして、でもアイツらしいな’