物語 ディーラーは死なず

為替ディーラー物語『ディーラーは死なず』
日々の外国為替相場にリンクして進行するディーラー物語。相場動向を物語にしているため、相場で何が起きているのか相場を疑似体験でき、相場の本質の理解に役立ちます。
前回の物語は、こちらよりお読みいただけます。
https://real-int.jp/articles/2020/
第55回「 焦り」
週初(18日、月曜)、震度6弱の地震が大阪を襲ったが、為替相場への影響は限定された。東京・ロンドンとドル円は110円台半ばを中心に模様眺めの展開が続く。
ニューヨークも朝からそんな展開が続いていたが、午後になると、少しずつドルがビッドになり出した。
「どう思う?」山下に感触を聞いて見る。
「多少ビッド気配ですが、これ以上買う気はなさそうですね」
「90(110円90銭)がポイントだが、確か11月の高値からの抵抗線もその辺に降りてきてるはずだが?」
「はい、85近辺でしょうか」
「動きのない相場だが、可能性のあることはすべてやるしかないな。50本、売ってくれるか」
‘少し自分で焦っているのが分かる’
「55です」
「了解。下がるとすれば、何処までかな?」
「基準線が9円75、雲が8円80。それに3月からの支持線が9円10から週末に45近辺に上がってきますが」
「なるほどね。それじゃ、さっきのショートの利食いとニューポジ(新規のポジション)、合わせて100本の買いオーダーを9円75でuntil further noticeで回しておいてくれ」
「了解です」
「ユーロドルは、ここで(1.16前後)の売買は手控えておいた方が良さそうだな。今日はもう止めにしよう。果報は寝て待てだ」
「そうですね。それじゃ、‘Chisa’にでも行きますか?」山下のこういう時の乗りは良い。
「そうだな。俺も久しぶりだ。行ってみるか」
‘Chisa’はニューヨーク支店御用達みたいなカウンター・バーである。店名はママの名前‘千沙’からとったとのことだ。千沙は美人ではないが、可愛らしくて話上手なので人気がある。
7月に家族がこっちに来る予定の山下は、ほとんど毎日、夕飯をここで食べてるらしい。
店は45ストリートを東に向かって2nd アベニューと3rdアベニューの間にあり、支店から歩いて10分ほどのところにある。
店には6時過ぎに着いたが、まだ客の姿はなかった。
「あら了ちゃん、久しぶり。今日はご出張?」
「ええ。お元気そうですね」
「ええ、それだけが取り柄だから」と言いながら、カウンター越しにオシボリを渡して寄越す。
「俺はビールにする。食い物はお前に任せる」カウンター・バーだが、日本人客の多いこの店では、ほとんどの定番和食を作ってくれる。
「それじゃ、僕はビールとかつ丼。あっ、かつ丼は大盛でお願いします。
後はお任せで」
「相変わらずだな、お前は」と山下をからかう。
山下のこっちでの生活ぶりなどで話が盛り上がった頃、「東京時代が懐かしいですね」とポツリと言う。
「おい、もう里心がついのか?まだ先は長いぞ」
「そうですね。それは分かってるんですが・・・。山際さんがいなくなり、そして評判の悪い横尾さんが来る。何となく、心細さを感じています」
「何かあれば、今回みたいに直ぐに俺が来る。心配せずに頑張れ。もう直ぐ、家族も来ることだしな」
「はい、頑張ります。ところで、岬さんとはどうなりました?」突如、思い出した様に聞いてきた。
岬がMOMAに来ることはまだ彼に伝えていなかった。
「ああ、実は彼女、当分こっちで働きたいと言い出した」一連の話を聞かせた。
「えっ、そうなんですか!それじゃ、当分結婚は無理ですね」
「当分というより、ほぼ絶望的だろうな。いずれにしても、岬がこっちに来たら、何かと面倒を見てやってくれ」
「分かりました。家内の親友ですし、その辺は任せておいて下さい」
「そっか。頼んだぞ」
8時頃になると、支店の連中が少しずつ増えだした。それをきっかけに店を出た。
「次は何処に行きましょうか?」いつもの山下の常套句である。
「いや、少し疲れたので、ホテルに戻る。お前は何処かへ寄って行くと良い」
‘200万ドルの決着を付けなければ、東京に戻れない’
山下にはそんな気持ちを明かさず、「それじゃ」と言って、ウォルドルフへと急いだ。
ホテルの部屋に戻り、PCにログインすると市場動向に目を通した。ドル円は110円近辺まで落ちている。
‘何かあった’
市場関連のニュースのヘッドラインを一覧し始めると、‘米中貿易摩擦、悪化’という文字に当たった。
'トランプ、2000億ドル相当の中国製品に10%の追加関税、検討’との報道である。
それから数時間後の午前2時過ぎ(東京の午後3時過ぎ)、ドル円は109円55銭まで沈んだ。
ベッドサイドの電話を手にすると、本店のディーリング・ルームの番号を押した。若手の声である。
「あっ、課長、お待ちください」と言って、沖田に代わった。
「沖田、ドル円、今幾らだ?」
「60aroundですが」
「50本買ってくれ」
「62(109円62銭)です」
「ありがとう。これで100本ロングだ。45(110円45銭)で100本、利食いの売りを入れておいてくれ」
「了解です。ところで、例の件の進捗状況はどうですか?」
「今の利食いが上手く行けば、7割ほど決着がつくが、来週までは掛かるかもな。そっちは大丈夫か?」
「はい、問題ありません」
「そっか、手薄のときにテレビの件も頼んで悪かったな」
「いえ、美人キャスターの真横に座れてますから。中尾さんはテレビで見るより実物の方が綺麗ですね」
「おい、おい。大丈夫か?」
「問題ありません。それに中尾さんは課長が好みみたいですから。前回の打ち合わせのとき、何かと課長のことを聞かれました。‘彼女がいるのか’とか」笑って言う。
「馬鹿言え。もう用件は済んだから、切るぞ」と言って、受話器を置いた。
‘これで一息つけるな’
その後、ドル円は週半ばを過ぎると、110円台後半へと上昇した。ドルロング100本は全て利食えた。
‘そろそろ仕上げ時かな’
21日(木曜)、東京の午後、沖田に電話を入れた。
「強いな。パウエル発言か」
「はい、そうです」
昨日(20日)、パウエルFRB議長が‘利上げ継続には強い論拠がある’と発言した。それがドル買いを誘発したのだ。
ポルトガル・シントラで行われたECB主催のフォーラムでの発言だった。
‘だが、パウエルは賃金の伸びが低い点も付け加えている。株式市場も、断続的に利食い始めているのも気懸りだ。戻りは売りかな’
「50本、売ってくれ」
「65(110円65銭)です」
「了解。もし90(110円90銭)がtakenする様であれば、電話をくれ。利食いもストップも不要だ」
「分かりました。しかし、連日連夜で、体の方は大丈夫ですか?」
「正直言って、疲れてるよ。ただ、もうひと踏ん張りだ。心配してくれて、ありがとう。それじゃな」
週末、ドル円は109円81銭を付けた後、109円95~00で引けた。
土曜日の夜、ふとパークアベニューを眺めたくなり、窓際へと向かった。南北を行き交う車のヘッドライトが幾重にも重なり合い、不思議な幾何学的模様をアベニュー上に織りなしている。
‘チャート上に描かれた相場の裏にもこんな模様が描かれているのかも知れない。否、もっと複雑なはずだ。相場に携わる人々の恐怖と欲、それらの中には阿鼻叫喚と怨嗟が入り混じっているのだから’
頭を振り、その場を離れると、ソファーテーブルに置かれたウィスキーグラスを口に運んだ。琥珀色の液体はマカラン18年である。
シェリー樽特有の甘い香りと滑らかな舌触りを楽しんだ後、液体を喉に流し込んだ。市場に疲れた心が癒されていく。
やっと国際金融新聞の木村宛てにメールを書く気になった。PCにログインし、Outlookをクリックすると、無造作にキーボードを叩き出した。
木村様
時間軸や保ち合いの形状を見ると、そろそろ放れそうですね。
米利上げ話もドルの下支えにはなる様ですが、押上げ材料としては弱い気がします。
6.12関連も少し手垢がついた感じなので、貿易摩擦問題が急に顕在化するかもしれません。
来週の予測レンジ:107円50銭~110円90銭
IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了
追伸:来週、帰国予定です。
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https://real-int.jp/articles/2047/