物語 ディーラーは死なず1

為替ディーラー物語『ディーラーは死なず』
日々の外国為替相場にリンクして進行するディーラー物語。相場動向を物語にしているため、相場で何が起きているのか相場を疑似体験でき、相場の本質の理解に役立ちます。
前回の物語は、こちらよりお読みいただけます。
https://real-int.jp/articles/1236/
エピソード1 収益改善
第6回 意地
週初からドル買い優勢の展開となった。先週末(7日)に発表された米6月雇用統計の非農業部門雇用者数(NFP)が事前の市場予測よりも増加したことを受けてのことだ。
先週末に作った30本のドル・ショートの持ち値4円10(イチマル、114円10銭)を既に超えている。だが、先月末に70%を超えた7日RSIは80%に到達している。ドルが落ちるのは時間の問題だ。
NFPが良かった後の翌週はドルが、それ程強くないという経験則を知りながらも、市場の多くが刹那・刹那のセンチメントに負けてドルを買っている。市場心理とはそんなものだ。
この流れでフィボナッチ水準の4円64(114円64銭)を潰すのは難しい。ここは108円台からのドル高一相場に一息入る水準であり、ドルロングの投げを誘い込めれば、一挙に相場は崩れるハズである。
「山下、金曜の夜に話した通り、俺はショートで構える。今週は勝負に出るよ。俺に構わず、インターバンクは臨機応変に対応してくれ。いいな」
「了解です」
だが、意気込みとは裏腹に、20(4円20銭)辺りから相場は滞った。とりあえず、20で20本だけ売って様子を見ることにした。
ロンドンが入ってくる頃に30を付けたが、ドルは伸び切れず、ニューヨークでも冴えない相場展開が続いた。やっと相場が動意づいてきたのは翌日の午後からだった。
「山下、野口、30本ずつ二つのブローカーで売ってくれ」
「25」、「26」と二人の声が響く。
「了解」と答えて、少し間を取ることにした。
「It’s Ryo. Sorry for calling you up at midnight」
電話の相手はアメリカの友人マイク(マイケル)・フィッツジェラルドである。マイクはコロンビア大MBA時代の友人で、米コネティカット州・オールドグリッジにあるヘッジファンド‘パシフィック・フェローズ’のCEOである。
彼のファンドに出資しているのはスイス系など欧州の機関投資家が多い。
「No problem. The time is not midnight, but early in the morning, though. Right? Ha! Ha! By the way, what’s up? Do you want me to sell bucks*?」
「How did you know that?」
「Cause I’m your friend. Ha! Ha! I can sell just100 bucks now. Is it enough?」
「Good enough! Thanks for your help」
「My pleasure! I know you’re now tied up with dealings. I’ll let you go, Ryo!」
「Thanks. Good night, Mike!」
電話を置くと、再びドルを売り始めた。
「山下、シンガポールを呼んで30本売ってくれ」
「35」
「了解。野口、浅野、東京のインターバンクで30本ずつ売ってくれ」
「37」、「40」
「了解。あと20本ずつ、マディソンとワールド・コマースで頼む」
「39」、「40」
コーポレート・デスクからも徐々に実需のドル売りが湧き出してきた。その後も買いが続き4円47を付けたが、東京での買いは少しずつ収まってきた。
自分の心も落ち着きを取り戻した頃、「課長、五井商事の武村さんからお電話ですが、出られますか?」と誰かの声がした。
スクリーンから目を離して顔を上げると、ジュニア・ディーラーの大西が受話器をかざしている。
「ああ、出るよ」と渋々受話器をとった。
「はい、仙崎です」
「随分お売りになったそうで、結構、内外で噂になってますよ」
「ええ、売りましたけど、随分とまでは」
「何か特別な理由でも?」
「いや特にありませんが、ここからは上が重たいと思っただけです」
「そうですか、さっきある外銀が‘米系ヘッジファンドがドルを売っている’と教えてくれました。それにスイスの生保が売りオーダーを置いていったそうで・・・。その辺りの背景は分かりませんか?」
‘マイクが仕向けてくれたんだ’
「残念ですが、まったく分かりません」
うちのコーポレート・ディーラーが武村の気を引きたくて、俺が英語で話していたのを伝えたのだ。守秘義務を越えない範囲で情報を客に提供して、その見返りにフローを取ってくるのも彼等の仕事である。
「有名人はいいですね。仙崎さんが売っていると聞けば、誰もが買うのを止める。また逆に売りも湧いてくる。流石ですよ」
「冗談は止してくださいよ。私の名前で市場が動く訳ないじゃないですか」
電話の向こうで武村の部下達が「yours」を連発しているのが聞こえてくる。武村がメモか仕草で「売れ」と命令しているのが手にとる様に分かる。
‘これで良い。今日、あちこちでディールしたのはこうした効果を狙ってのことだ。武村はさらに他行にも俺の話を伝えるだろう。そしてそれが東京市場全体に行きわたり、さらには海外市場にも伝わる’
「それじゃ、仙崎さん、失礼します。またそのうち、帰国祝いでもさせてください」
「ありがとうございます」
今日は彼の電話を逆利用できたが、普段は迷惑な電話である。それでも五井商事とはうちのあらゆる分野で取引があるため、出ないわけにはいかない。
電話を無下に扱えば他の部署に影響が出かねないのだ。彼はそのことを知りながら、しばしばうちに電話をかけてくる。もっとも、こうした積み重ねが五井商事の市場部門の歴史を培ってきたのも事実である。
その日のロンドンやニューヨークでもドルが買われたが、高値は49(114円49銭)止まりだった。しばらくすると、フォローの風が吹き出した。
トランプ大統領の長男が昨年の大統領選に絡んでロシアと接触したことを裏付ける報道が流れ、ドルの上値が急に重たくなった。米株は急落し、米金利も低下した。
そしてブレイナードFRB理事の「テーパリング開始後は次の利上げには慎重な姿勢で臨む」という趣旨の講演がドルロングの投げを呼び込んだ。もはや市場にドル買いの気配はない。重要な3円70(113円70銭)を割り込むのは間違いなかった。
さらには翌日水曜のニューヨーク早朝に公表されたイエレンFRB議長の議会証言原稿がドルの下落を決定的なものにした。
原稿には「インフレの先行き不透明感に関する懸念や大幅な利上げは不要」との内容が示されていたのである。
これでドルは一挙に2円92(112円92銭)まで急落した。意地を張り通した甲斐があった。意地を張って事が上手く運べば‘流石’と言われるが、しくじれば‘執着心’の強いヤツで片づけられる。
まだ俺も前者の様である。週末の8時半過ぎに銀行を出ると、青山の‘Keith’ に向かった。やや重めのドアを押すと、マスターが笑みを浮かべながら迎え入れてくれた。
「カウンターの奥はどうですか?」
「いや、後からもう一人来るから右手の奥のテーブルの方が良い」
「それでは、そちらへどうぞ。女性ですか?」と笑みを浮かべながら言う。
「そんなこと、昔はあったな。生憎だが、ほぼ中年の小太りの男だ」
「そうですか。それは残念ですね」
「まあそのうち、飛び切りの美人を連れてくるよ。注文はフォアローゼズ・スモールバッチのストレートとチェイサー、それにサンドイッチを二人前。音はKeithのJasmineを頼むよ」
「承りました」と言い残し、オーディオセットの方に向かっていった。
Jasmineは一人で静かに聴き入るのに良いアルバムだ。
For all we know, Where can I go without youが終わり、トラックがNo moon at all に入ると同時に携帯が鳴った。居残りの山下からに違いない。
「悪いな、先にこっちに来てしまって。それで数字はどうだった?」
「米6月CPIや小売り売上高が事前予測を下回りました。今、2円前半です」
「そうか。4円台で売った3分の1は3円20近辺で買い戻しているから、残りの半分を買っておいてくれるか。後の半分は来週考えるよ」
「了解です。35でダンです」
「もう済ませたのか。異常な速さだな。それじゃ、適当に片づけてこっちに来いよ。場所は分かるよな?」
「はい。これから出ます」
30分ほどして、汗を拭いながら山下が現れた。店は246から数分歩いたところにあるが、その間にも汗ばむほど外は暑く湿気を帯びている様だ。
「今週はお疲れ様でした」
「お前こそ、何かとありがとう。ビールで良いか」
「はい、とりあえず」
「マスター、彼にカールスバーグを頼む」
山下はビールをグラスに注ぎ終えると、‘頂きます’と言いながら一気に飲み干した。
「上手いですね。そのサンッドイッチも良いですか」
テーブルに置いてあるサンドイッチを指差す。
「食いたいだけ食っていいよ。腹がもっと出ても良ければな」
「ひどいな、いきなりそれですか」
二人の笑声がテーブル席から飛び散った。
Jasmineの後にかけてもらったThe Melody At Night, With Youも、もはや場の雰囲気に合わなくなっていた。
「了さん、来週はどうですか?」
「ドルが崩れて日が浅いから、市場のセンチメントが直ぐに変わるとも思えないな。
問題はドルが売られたときに3月と5月に揉んだ11円台が簡単に崩れるかどうかだ。また値頃感からのドル買いが出ても今週の失地をすべて回復するほどの力はないと思う。
簡単に言えば、‘ドルは弱含み、だけど、11円と13円70(111円~113円70銭)の中での揉み合い程度に構えておきたい’てところかな。日米共に政局も微妙だし、とりあえずは週初の様子を見よう。まあ、それよりも今日は飲もう」
「はい」
注 *buck:米ドルのこと
続きは、こちらよりお読みいただけます。
https://real-int.jp/articles/1278/