物語 ディーラーは死なず1

為替ディーラー物語『ディーラーは死なず』
日々の外国為替相場にリンクして進行するディーラー物語。相場動向を物語にしているため、相場で何が起きているのか相場を疑似体験でき、相場の本質の理解に役立ちます。
前回の物語は、こちらよりお読みいただけます。
https://real-int.jp/articles/1205/
エピソード1 収益改善
第3回 嫉み
山下を労うために訪れた銀座のバー‘やま河’は、元米系銀行の人事部長だった女性が早期退職して出した店である。下町生まれらしい彼女の気風の良さが好きで、ニューヨークに渡る前から訪れていた店だ。
山下はシングルモルトのグレンリベットをテイスティング・グラスで飲むのをすっかり気に入った様子だった。次々とグラスを重ねる彼を見ているうちに、自分もついつい飲み過ぎてしまった様である。
神楽坂の社宅に戻った後、ソファーで少しだけ休むつもりだったが、いつしかそのまま眠ってしまった。気付いたときは5時を過ぎていた。帰りの車中で少しドルを買ってみようと考えていたが、もう遅い。ニューヨークは金曜日の午後4時過ぎである。
週末のその時間、銀行もブローカーも市場への関心をなくし、ディーリング・ルームではミニチュアのアメフト・ボールやバスケット・ボールを投げ合っている頃だ。
そして5時になると皆、家族や恋人の元へと急ぐ。このとき正に、世界中の為替ディーラーも束の間の休息を迎える。それは俺や山下も同じだ。何かやりたければ、月曜日のオセアニアまで待つしかない。
週が変わって月曜のオセアニアで多少ドルは売られたが、10円80銭で止まった。市場の中心が東京に移ると、ドルは寄り付き近辺でややビッド気配になった。
金曜の晩に山下から「来週はどうですかね?」と聞かれ、「5月からのウェッジを上に放れたので、もう少しドルが上がる様な気がする」と返したものの、12円直前から垂れ込めている一目の雲やフィボナッチ水準の11円60銭と12円25銭を一挙に潰せるとは思えなかった。
11円台は5月下旬に揉んだ水準でもある。そうした水準では輸出などのヘッジャーが必ずドルを売ってくる。だが、基本的に下降ウェッジの上放れは買いである。
酔い潰れて週末のニューヨークでドルを買いませなかったこともあり、少し躊躇った後、20本だけ買うことにした。
「高ちゃん、今どんな感じ?」パシフィック短資の高橋に聞く。
「少しビッドが出てきた感じです」
「20本買ってくれ」
「96です。カウンターパーティーはマディソン東京です」
「了解」
‘マディソンが売ったということはニューヨークのロングがまだ残っているのか。とすれば、この先も東京で11円台後半は無理かも’
「浅沼。客はどんな様子だ?」
コポーレート・デスク(顧客担当デスク)のヘッドに客の動向を聞いた。コーポレート・デスクの情報も重要である。浅沼は報告のために自分の傍らまで来てくれた。
自分の席はインターバンク・デスクに置いているが、コーポレート・デスクもオプション・デスクも自分の管轄下にある。
「朝から輸出筋は11円台後半から12円前半にリーブを置いてきています。豊中自動車や日の出自動車も11円台後半からは売るみたですね。メーカーはそんなところでしょうか。機関投資家は今、様子見だと思います。商社は、朝方に五井商事がうちで20本、他で20本買っています。イギリスの総選挙後に売り続けていたポン円(ポンド円)も、このところ大分買い戻したようです。菱田物産も同じ様な動きです。仙崎さんはさっき、ドルを少し買った様ですが、何か根拠は?」
「下降ウェッジを上に放れたこと以外は特に理由はないが、80程度まではあると思っただけだ。だめなら、適当なところで倍売るよ。少し動いてきた様だな。それじゃ、今日も頑張ってくれ!」
ディーリング・ルームに‘マイン(mine、買い)、ユアーズ(yours、売り)’の声が飛び交い出した。そのタイミングを見計らって、話を終えた。
「了解しました」
週初からドル買いが先行したが、やはり一目の雲の直下で止まってしまった。火曜日に79を付けたものの、ドルは伸び悩んだ。
ムニューシン米財務長官の「強いドルには不利な面もある」という発言に多少懸念を抱いて、45で50本を売っておいた。20本は昨日買った20本の利食いに当てた。
残りの30本は8円90銭で作った30本のロングの利食いに当てても良いし、10円80で下げ止まる様ならそこで利食っても良い。根っこのポジションがあると、上手く回転が効く。
現在のポジションは、8円90銭のロング30本、11円45銭のショート30本である。
先のことを考えると、この程度の本数で売買していては不十分だが、焦っても上手くいかないのは分かっている。ポジションを捌いているうちに帰国してからの腰の座らない感触が薄らいできたのが分かる。
‘勝負はこれからだな’
週後半に入ると、ドルがじり安の展開となり、束の間10円95銭へと下落した。だが、不思議なことに11円割れで買いが入り直ぐに11円台に値を戻す。
手詰まり感が広まるなか、週末の東京は11円台前半で動意がなくなり、午後3時過ぎになると顧客からの電話も完全に途絶えてしまった。
‘海外もこんな感じかな’と思いながら、デスクの左手に見える皇居を眺めていると、横に人の気配を感じた。目をやると、部長の田村が立っている。
「どうだ。少しは落ち着いたか?」
「そうですね。まだ家具も電化製品も買い揃えていないので、まだまだでしょうか・・・」
立ちながら、答えた。
「でも、ディーリングの方は上手く行ってる様だな。流石、世界の仙崎か。随分と東城さんにも可愛がられている様だし、この本部でのお前の将来は明るいってわけか」
口元に小さな笑を浮かべているが、銀縁の眼鏡の向こうには狡猾そうなキツネ目が光る。文字通り薄気味の悪いやつだ。
東京国際銀行は2002年に住井銀行と日和銀行とが統合して出来た銀行である。日和出身の田村は俺が住井出身の東城を慕っているのを快く思っていない。
統合後に入社した俺にとって、かつての出身行話はどうでもいいことだが、依然として上層部にはそれを意識している雰囲気もある。そしてそれが、下の連中も少なからず影響しているのだ。
「そう首尾よく事が運べば良いのですが。今うちの状況が悪いのは部長もご存じのハズですが」と切り返した。
「俺はもう単なる事務屋だ。金稼ぎはお前等若い連中に任せるよ」
「そうですか。もうポジションをお取りにならないんですか?」
「お前みたいに優秀なヤツがいちゃ、その気もならんよ。まあ精々、頑張ってくれ」
嫌味たっぷりの捨て台詞を言い残すと、踵を返して自席に戻って行った。部長席には田村のデスクの他に、本部長用のデスクと秘書のデスクがある。執務室のある東城はその席に着くことはめったにない。
そのため、外部からは田村がディーリング・ルームを仕切っている様に見えるが、マネーデスクの管理と市場部門の事務責任を負っているに過ぎない。かつて俺が多額のロスを出した時の外国為替課長が田村だった。
このデスクに異動した直後から頭角を現した俺に、当時の部長であった東城が何かと目を掛けてくれた。それを妬んだ田村と彼に組みした部下の二名がある日、俺に罠を仕掛け、そしてその罠に見事に嵌ってしまった。
そんな振り返りたくもない過去が脳裏を過ったとき、「課長、国際金融新聞の木村さんからお電話です」と部下の斉藤の声が聞こえ、頭を振った。
「お久ぶりですね。お元気ですか?」
「お帰りなさい。マーケットが閑散なときを見計らってお電話させて頂きました。ご活躍のご様子で何よりです。まだ私的にも公的にもお忙しいでしょうから、また落ち着いたら夜の席を設けさせて頂きます」
「ありがとうございます」
「ところで、来週はどうです?」
「正直言って、少し迷いがあります。まだ少しドルがビッドだと思うのですが、11円の後半に行くと売りが出てくるので、なかなか俄かロングは堪えきれない様ですね。来週中に80(11円80)を抜けないと、ドルが振り落とされる様な感じを持っています。下の80(10円80銭)か上の80(11円80)が抜けると、少し動意づくといったところでしょうか。アメリカの5月個人所得・消費支出、それに5月コアPCEデフレーターの市場予想は悪い様ですが、注意しておいた方が良いと思います」
「そうですか。予測レンジもお聞きしていいですか?」
「109円95銭、112円25銭と言ったところでしょうか。25が抜けたら、12円90銭位はあるかも知れませんね。その可能性は低いのですが・・・」
「どうもありがとうございます。それでは近い中にお会いできるのを楽しみしています」
新聞記者は疎ましいときもあるが、常識のある記者は場の雰囲気を心得て電話を掛けてくる。木村はそんな一人である。
それから2時間後の6時過ぎ、まだ居残る部下達に今週の労いの言葉をかけてから、ディーリング・ルームを後にした。外の空気を思いきり吸うと、人並みの気持ちが甦ってくる。久々にジャズを聴きながら飲みたい気分である。
タクシーを拾うと、‘246沿いの青山3丁目の真ん中辺りで降ろしてください’と運転手に告げた。目当ては‘Keith’である。
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