物語 ディーラーは死なず1

為替ディーラー物語『ディーラーは死なず』
日々の外国為替相場にリンクして進行するディーラー物語。相場動向を物語にしているため、相場で何が起きているのか相場を疑似体験でき、相場の本質の理解に役立ちます。
前回の物語は、こちらよりお読みいただけます。
https://real-int.jp/articles/1184/
エピソード1 収益改善
第2回 業務命令
月曜の朝、市場が一段落した後、東城の執務室に向かった。先週末に帰国祝いの宴を設けてくれた銀座の寿司処‘下田’での約束事である。
ディーリングルームの南側に位置する部屋は市場の動きがつぶさに分かる様にガラス張りだが、ミーティングのときはブラインドを下ろすのが彼の習慣だ。ドアをノックし「どうぞ」の声を待って部屋に入ると、皇居の森を眺める後ろ姿があった。
東京国際銀行(IBT)本店は大手町交差点を日比谷方面に向かいツウーブロック目に位置し、国際金融本部はその14階にある。
一月に53歳になったという東城だが、背筋が伸び、肩も落ちていない姿からは微塵もその歳が感じられない。この人を見ていると、本当に自分が小さく見えてならない。
「金曜日はありがとうございました。久しぶりに東城さんと落ち着いて話ができ、やっと帰国した気分になれました」
「そうか、それは良かった。今週はFOMCが予定されているとあって、市場は週初から静かだな。利上げはほぼ確定的なのだろうが、声明次第では多少のインパクトがあるんだろうな・・・」
「そうですね。直前にCPIの発表もあるので、それまで様子見でしょうか。もっとも、CPIの結果に関わらず、FOMCは声明を変更しないと思います。このところの経済指標がやや弱いと言っても、基調としてそれが認められない限り、今回の声明に‘年内の追加利上げとバランスシートの縮小’を入れてくるのは間違いありません」
「ということは、CPIの結果が悪く、俄かにドル売りとなっても、追いかけるとショートカットの憂き目にあうということか」
「そうですね。CPIが予想外に悪く、結果的に8円台(108円台)が拾えれば、少し買ってみたいと思います。もっとも、長期の話になると別かと。
なかなかイールド・カーブがスティープニングしてこないので、マネーの連中もアメリカの実体経済がそれほど強くないと踏んでいる様です。
このままFEDが正常化路線を継続すれば、景気をオーバーキルしかねません。
ここ数カ月の個人消費や物価指数を見ても、性急な正常化は無理筋かと思います。
最悪はドルの大きな下げにつながるかも知れません」
「俺も、お前の見立てが正しいと思う。ところで、先日言いかけた話だが、先進国の金利がこんな状態なので、今期はマネー・デスクもこれまでのところ今一つだ。お前の知ってのとおり、為替の収益も低空飛行が続いている。昨年も市場部門はバジェット未達に終わっている。お前には帰国早々で悪いが、9月期の未達は避けたい。どうだ?」
「東城さんがそう言うときは、命令ですよね」
「お前とは話が早く済んで助かるよ」
「リミット(限度額)は任せて頂けますか?」
「必要とあれば、自分で判断しろ。リミット・オーバーは事後報告で良い。後は俺が責任を持つ。ところで、明日ロンドン支店に行くことになった。うちがEU内の営業認可をロンドンで取得しているのはお前も知っての通りだ。ブレグジットが縺れそうな気配なので、念のために新たな認可拠点を設けておく必要がある。そのための会議に出席する。俺はフランクで行こうと思うが、お前はどう思う?」
フランクとはドイツの金融の中心都市、フランクフルトのことである。出張で幾度か行ったことがあるが、地味でまったく色気のない街という印象だけが頭に残っている。
「あそこにECBの本部がある以上、この先何かと都合が良いかと」
「分かった。後は頼んだぞ」という東城の言葉を最後に、ミーティングは終わった。
FOMCの二日目が終了する現地水曜日の朝8時半、5月のCPIとリテール・セールスが発表される。東京時間では午後9時半だ。時刻丁度になったとき、モニターにヘッドラインが走った。
「出ました」居残りを頼んでおいた山下の声が広いディーリングルームに響き渡った。
「両方とも悪い数字だな。少し待とう」
「はい。長期金利も下がっています」
10円台から急落したドルは30(9円30銭)辺りで下げ止まったが、11時を過ぎた頃に再び売り気配となり、やがて12(9円12銭)がギブン(given)*した。
「先週の安値だから、ここはロスカットが出るな。ニューヨークの沖田を呼んで9円割れで30本*買う様に伝えてくれ」
尋常でない速度で山下の指がキーボードを叩いた。
「98で20本、97で10本ダン(done、成立)です」
「そうか。ストップロス・オーダーは全額、8円13銭ギブンで入れておいてくれ。アカウントの処理は、98の20本が俺の分、97の10本はお前の分で頼む」
108円13銭は4月17日に付けた中期の重要水準である。ストップを入れざるを得ない水準だ。
「了解です」
「とりあえず、下げ止まった様だな」
「はい。9円台に戻しました」
「どうしますか。この後」
もう日付が変わっていた。
「少し疲れたので、今日はこのまま神楽坂に戻るよ。まだ水曜だし、お前も帰った方が良い。悪いけど、一応FOMCの後に沖田に連絡を入れてみてくれないか。声明後に8円台がある様だったら、後30本買っておいてくれ」
「買えたら、リーブはどうしますか?」
「ストップだけ、前のやつと同じレベルで頼む。利食いは前の20本を9円の80で、後の30本は放って置いてくれ。お前の10本は自分で処理しろ。今日は急に居残らせて悪かったな。この埋め合わせは、近いうちにするよ。それじゃ、お先に」
「お疲れ様でした」
社宅は神楽坂にある。その方向を考えて日比谷通りを反対側に渡り、タクシーを拾った。
「神楽坂へお願いします。牛込北の交差点近辺で降ろしてください」と運転手に告げると、目を瞑った。疲れのせいか、少し走り出したところで眠ってしまった様である。
「お客さん、着きましたよ」という運転手の声で起こされ、時計に目をやると、針は一時を指していた。何処にも寄らないことにした。交差点から程ない場所にある社宅に着くと直ぐにシャワーを浴び、ビールとトーストで腹を満たし終え、そのままベッドに倒れ込んだ。
翌朝7時半にディーリングルームに入ると、部下全員が自分のすべき仕事を進めていた。ディラーの朝は早い。
「山下、昨晩はありがとう」
「いいえ。追加の30本、90で出来ています。それと、20本の利食いもダンです」
「そうか。まずまずだな。お前の分はどうした?」
「9円の80で利食ってしまいました」
「利食い千人力だからな。でも、少し買っておくと良いかもな。今いくらだ?」
「40アラウンド(around)です」
「20本買ってくれ」
「40でダンです」
「そのままキープでしておいてくれ。これでトータル50本のロングだったな?」
「はい」
「ところで、今日はこれから、MOF、BOJ、それと重要顧客のところに挨拶回りに出かける。終日かかると思うので直帰するが、何かあったら電話をくれ」
ドル円はその日のニューヨークで110円98銭を付けたが、利食うのを止めた。普通なら、80辺りで利食っておきたかったが、東城からの命令を思うと、堪えるしかなかった。金曜の晩、一昨日の罪滅ぼしで山下を銀座に誘った。といっても、すずらん通りにあるカウンター・バーである。
「ニューヨークの沖田はもうオフィスにいる頃だな。少しドル円の様子を聞いてくれないか」
「11円の40を付けた後、少し上値が重たいそうです」
スマートフォンを塞ぎながら言う。
「20本、売ってくれ」
沖田の声が小さく聞こえる。
「25でダンです」
「ありがとう。週末のポジション調整で、ニューヨークはもう少し売ってくるハズだ。稼がなければならないが、念のため、少しギアを落とすことにする」
「来週はどうでしょうか? 了さん」
「5月からのウェッジを上に放れたので、もう少しドルが上がる様な気がする。でも、一目の雲が12円手前にあり、フィボナッチも11円の60と12円の25にある。根っこのロングがあるから、とりあえず週初は様子見かな。それにしてもラフロイグは旨いな」
「えっ、薬臭くないんですか。僕はグレンリベットの方がフルーティーで好きですが」
「そうか。でも、そのシングルモルトは水割りやロックで飲むもんじゃない。テイスティング・グラスで飲むと、香が立ってもっと旨いぞ。ママ、こいつにテイスティング・グラスで同じものをやってくれ。それにママも、何かどうぞ」
今日はとことん飲むことにした。
注
1)given:ある値で売りになった(売られた)ことを言う
2)本:1本は100万ドルを指す
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https://real-int.jp/articles/1216/